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  恋蜘蛛―sasagani―  

                桜鬼弓女

 

 

 

      いまは遠いあなただから

       ひきよせたい

       とらえたい

       この手のなかに どうぞ堕ちて

               ―――誘惑。

                 

 

 鉢植えのジャスミンがひときわ高く薫りたったその刹那、夕映えの明るさはそのままに、雨の香いがよぎった。

 水蜜桃の果汁に濡れた口もとをあわててぬぐい、素早く手をすすいで二階の硝子戸を開ける。ベランダには、Rが明日、個展に着ていくと云っていたシャツが干してあったのだ。まずそれを取り込んでから、リネン類、タオル、そして最後に自分のサマードレスを取り込む。その間八分間――の後、遠雷が聞こえ、地に沁み入る、佳い雨が降り出した。

「狐の嫁入りだな」

ブラシクリーナーを使いながらRは云う。

「茉莉がいてくれてたすかった。有り難う。――間に合った?」

「なんとか」

答えながら、わたしはアイロンのスイッチを入れる。

「僕ももらおう」

Rは、芸術の女神に憑かれている時特有の、一種官能的な、充血した目を光らせながら、冷蔵庫から水蜜を出した。ざっと洗い、皮をむかずに、熟れた果肉に歯をたてる。

 とがった舌と歯で果肉をくずしながら、むさぼるようにして水蜜を味わっている彼のからだが、糖分以上に水分を欲していることに、わたしはふいに気づく。わたしは傘をささずに勝手口を出、すこしだけ髪を濡らしながらプランターに植えてある薄荷を摘み、アッサム茶と一緒に淹れて、冷たい飲み物をつくった。

「ダンケ。しかし、よく気づいたね」

「え?」

「雨だよ」

云って、Rはグラスを空け、氷をひとかけ、口に含む。

「雨とは無縁の一日だったろう。長期予報でも、むこう一週間は晴れだった」

ああ、とわたしはこくりとあごを落とす。

「ちょうど、外を見ていたの。あかるいなあって。ちょっと変だなあって。――しあわせになると佳いわね」

「誰が?」

「きつねさん」

 とたんに彼は、ぷうっ、と無遠慮に噴いて、喉をくつくつ云わせながら笑いにきらきら光る目でわたしを見つめる。

 わたしが大まじめだったのでげらげら笑うことができずに、頬をふくらませて爆笑をこらえているのだ。

 端正な顔をかじりかけの水蜜のようにくずしたR。目尻に刻んだ笑いしわが魅力的なR。わたしのほうこそ、そんなRに報いるべき、仏頂面ができない。この場にふさわしいのはふくれっ面だと思いはするのだけれど。

 いとしいな。

 ぽおっ、と見つめかえした。

「なべて世は事もなし」

そう云ってRはぐるりと目玉を回し、

「きつねもきっとバカップルだろう」

と云ったがさいご、とうとうげらげら笑いが破裂した。拍手みたいな雨音が、勢いにさおさすように重なる。

「……おかしいかしら、」

「いや、佳い傾向だと思うよ」

Rは真顔に戻ったものの、まだ肩を小刻みにふるわせている。

「他人のしあわせを祈れるというのは、まず自分がしあわせで余裕がある、ってことだからね。茉莉はしあわせなんだな」

ちょっと、ひっかかった。

「Rは?」

わたしほどにはしあわせでないのだろうか。

「きつね『も』バカップルだと云っただろう」

それ以上は云わない。そんなところが、わたしにはいとしい。ほんとうに、これではばかみたいだ。

 でも、雨が降っているときに陽が射すと、太陽が出ているのと反対の方角に虹が架かるのだ。きつねさんのお輿入れは、かならず虹で彩られているのに。

 しあわせにならないわけはないと思うのだけれど。

 でも、云えない。

(こども、かしら)。わたしは頬を染めたまま、無言で、麻のシャツにアイロンをすべらせる。リネンウォーターは柑橘系の香料が入ったものだ。Rのトワレに合わせてわたしが選んだそれを、彼はひどく気に入っていた。

 

――と。

「あ、」 

ふいに、なにかが指に絡んだ。

 

「どうした?」

 わたしは自分の右手を軽く持ち上げて見つめる。そして天井を見上げ、また手に視線をおとす。

 天井から、美しい朱色の、小さな蜘蛛が降りてきて、アイロンをつかんだわたしの手の甲へと止まったのだ。

「……蜘蛛」

 ほんとうに、美しい蜘蛛だった。大きさは淡水真珠くらいだろうか。全身、朝焼けの空みたいな朱色で、瀟洒なからだつきをしていて、長くもなく短くもない脚をよちよちと動かしてわたしの手の上を歩く。

 蜘蛛がくすりゆびにとまった。まるで指環の珠のようだ。

 うっとりと眺めていたわたしは、ふいにRの視線を感じて顔を上げた。

「なに?」

「いいや、茉莉は蜘蛛を怖がらないんだな、と思って」

Rは満足げな微笑を浮かべている。

「こわいものなの?」

「蜘蛛が好きなおんなのこはあまりいないんじゃないかな。ゴシックアクセのモチーフとしてならともかく、生きた蜘蛛を喜ぶ娘は少ない気がする」

「……だって、奇麗だわ。大きな蜘蛛は少しこわいけど、基本的に蜘蛛は美しい生き物だと思うの。それに、蜘蛛がいる家にはごきぶりはいないでしょう?蜘蛛がごきぶりの赤ちゃんを食べてしまうから。家の守り神だと母は云ってたの」

「ふうん。いいね」

Rの悪戯な笑みが、ますます猫じみて輝きを増した。

「雨、しばらく続くのね。雨宿りさせてやってもいい?」

「もちろん」

ここ、熱いのよ。こんな処にいちゃいけないわ。蜘蛛がアイロン台に降りようとしたので、そう云って聞かせて、空を手で掻いて糸を切り、糸をつかまえたところで部屋の隅のジャスミンの鉢まで蜘蛛を連れていく。いい子にしてるのよ。

 ぽってりと白く、薫り高い花びらの上で、『彼』はしばらく居心地悪そうにもじもじしていたけれど、やがてまた、自分のペースを取り戻して徘徊をはじめた。

「我が家の蜘蛛はしあわせだな」

 Rは椅子に逆向きに座り、背もたれに腕をあずけて、重ねた手の上にあごを乗せたまま、すねているのか羨んでいるのか解らない口調で云う。持病の『子どもの王様』気質が纏う空気にたれ込めている。

「こんど蜘蛛に生まれるなら、またこの家に棲むといいわ」

「その時にも茉莉はいるかな」

「いる、と思うの。でも、わたしは蜘蛛には生まれないから、いいひとを見つけてね」

「自分だけ人間に生まれて僕の前で誰かに抱かれるつもり?」

「ちがうわ。貴方をたべたくないの」

「随分だな、」

「……わかってるくせに。蜘蛛の交配は……、」

ああ、とRは首肯する。

「蜘蛛の恋は、雄蜘蛛が雌に喰われることで成就を遂げるんだったな。なるほど、性衝動と食欲がひとつになっている訳だ」

「でしょう?だからわたしは貴方が蜘蛛に生まれるなら、」

(蝶に生まれたいの、)そうしたらたべてくれる?

あやうくそう云いそうになってあわてて口を閉ざす。

 でも、Rはなんでもお見通しだ。光彩の淡い目をやさしく細め、けれどそれを裏切る悪戯な唇で深い声を紡ぎ、ねだる。

「云ってご覧、」

「……云わない、」

ぱっときびすを返し、Rに背を向けて座り、スワトウのハンカチにアイロンを当てる。火照る頬を必死でうつむけながら、照れ隠しにしても我ながらぶざまだ、と、ますます恥じ入っていると、

「ふうん、」

耳に毒を吹き込むようにささやかれて肩がぴくんとはねる。いつの間にかRがわたしの背後にひたと寄っていた。

「云わない?」

わたしの長い髪を一房、すくいあげて、さらさらとこぼす。

「……云わな、」

どうして髪というのはこうも敏感なのだろう。触覚など無いはずなのに、髪に触れられると心乱れずにはすまない。 

「云ってみせてよ」

「……っ、」

背後から、Rのゆびが髪を割って耳に忍び寄り、耳朶が、なにか草の実でも摘むようにくりくりと愛撫される。穴を空けていないわたしの耳の、その温度と質感をRはとても好んでいた。

 Rがアイロンのコードを引き抜いた。

 

 Rの髪が、汗でしっとりと濡れている。薫りたつトワレ。

 荒い息がすむまで、わたしは黙ってその髪を撫でていた。

「何を考えているの、」

ふいにRは訊く。わたしは微笑して答える、

「蜘蛛のこと」。

Rが片眉を上げてつづきをねだる。

「蜘蛛に生まれたら、こんなふうに触れることはなくなるんだな、って。貴方のこと、喰べたくてしかたなくなるんだわ」

Rは、まだ云ってるのか、と云いたげにほろ苦く笑って応える。

「それもいいけれどね、」

「わたしはいやだわ」

「かまわないよ」

「いや。いやなの」

Rの胸に額をあずけてだだをこねるわたしの、頭の天辺にくちびるを軽く押しつけ、彼はくるしげに微笑んだ。まるで、自身の愛を拒んで月桂樹に変わったの前で立ちつくすアポロンのような笑みだった。

「でも、」

Rは深い声で言を紡ぐ。

「蜘蛛になった僕を、やはり貴女は恋うんだろう?」

わたしは黙ったまま、思いの丈を舌と吐息とくちびるにこめて、永久の夜を誘うような、あまいくちづけで答えた。

 くちびるを離す。

「蜘蛛って、けなげだよな」

ふいに、Rは云う。

「え?」

「自身も、糸をのばして風に乗れば飛べるのに、そうしない。一カ所に巣を張って、そこでじっと、待っている。ただ、待っている。恋心を渡す相手がかかるのを。寂しさも空腹も極まっているだろうに、ただ、待っている」

「……ええ、」

ほんとうに、そうだ。

「そう思うと、蜘蛛の糸のあの粘着力も頷ける。彼らにとってはいつでも、生涯最後の恋なんだ、喰う、と云う、そのことがね」

「じゃあ、蜘蛛の巣があんなに奇麗なのは、恋心を編んでつくった『誘惑』のかたちだからかしら」

「そうじゃないかって気がしてきたよ。貴女を見てたら」

「わたし?」

「うん。貴女は蜘蛛みたいだなって思ってさ」

「どこが、」

わたしはちょっと視線をそらせる。

「奇麗で、」

Rのくちびるがわたしに迫る。

「けなげで、」

わたしのくちびるを軽く噛んだ悪戯な歯と舌が、のどをくすぐりながら鎖骨へ降りる。こえ、が、でてしまう……。

「僕を喰らって夜ごとに美しくなるところが」

「……ぁ、」

 Rの、蜘蛛の爪のように細く長い締まった指が、わたしのからだを執拗に這う。

 脳裏に、ひかりの糸が張り巡らされる。目裏が暁天の朱に染まる。そこに君臨する蜘蛛は、Rの姿をしていた。

「どちらが…蜘蛛なの……?」

 罠にかかったのは、たべられるのはどちら?

 冷静に思ったのはそこまでで、次の瞬間わたしは糸にとらえられ、くれなゐのなかで、花の香りの美しい臓腑を、宝石箱をぶちまけたようにあふれさせた。

 血色の、官能。

 

 ふいに、わたしは夢から醒めた。

 

 Rはいない。

 わたしははだかのからだに絹のスリップを纏い、渡り廊下を隔てたRのアトリエへと向かった。

「……R、」

そおっと、声をかける。彼は、画布ではなく机に向かって、マーメイド紙に色鉛筆で女神の画を描いていた。

 天上から降りてきた蜘蛛女神。上半身はブルネットの東洋系の女性、蠱惑的な瞳をした……けれど、腰から下は、アクアブルーに輝く、蜘蛛のそれだった。

 臀を天井に向けている、いえ、上から降りてきたばかりなのだ、宙に腹這いになっているようなポーズだ、おかしな云い方だけれど。釣り鐘型の胸は程良い大きさで、淡桃色の頂はまっすぐ下を向いてはおらず、やや、前方に頭をもたげていた。

 彼女が妖物ではなく、女神だと解ったのは、彼女が戴冠されていたからだけではない。

 繊細な蜘蛛の糸を繰って、精緻なタッチで、いくつか、人物の肖像をその巣のなかに編み込んでいたからだ。

 肖像は、ひと組の男女の横顔だった。男性の方は、おそらく、王だろう。それも、この上なく優美で、尊大で、畏ろしいほどの威を誇る、神々の王。女性の方は、おそらく、只人。

 そう、この蜘蛛女神は、アラクネだった。

 ギリシャ神話に登場する小神。アテナ女神との織物の勝負で、神王ゼウスの不埒な行いの数々を織りだした一幅のタペストリーを織り上げ、技術の上では勝利したものの、不敬罪に問われて蜘蛛に変えられた女神。

【けれど、蜘蛛こそがアテナ女神の象徴虫であり、アラクネの名が『紡ぐひと』を意味するものであり、ひいては、彼女こそが『運命を織りなす者』としてのアテナ女神の一側面であることはあまり知られていない。】

 わたしは、一人掛けのソファーに置かれた、B・W版のギリシャ神話の文庫本でその一節を確認した。

 なら、と、わたしは思う。

 Rとわたしとの運命も――出逢ったことも、ともに過ごす永い蜜月も、やがて訣れ、散り逝くことも、蜘蛛が織りだしたタペストリーの一片に過ぎないのだ。

「蜘蛛……」

「欲しいの?」

 ふいにかけられた声に驚いて顔を上げると、いつの間にかラフを終えていたRが、わたしの肩越しに、右手から、本に挟んであった栞を抜き取った。いま気づいたけれど、それはなじみの宝飾店の葉書だ。 

「知ってるよ。『吸血鬼』で見てたろう、プラチナ製の蜘蛛のピアス」

「……え?」 

Rは、ジュエリーショップの名を口にした。『吸血鬼』というのはわたしたちが贔屓にしている店で、Rは、わたしに身につけさせるアクセサリーはすべて此処のモノと決めていた。

「駄目だよ。開けさせない」

「開け……って、ピアスホール?」

「赦さないよ、」

子供じみた支配欲。そんなことを云われたら、うれしくて、おいたを重ねたくなってしまう。

「ピアスホールは開けないわ」

「『は』、というのは何?」

「刺青をしたい、と思ったことはあるの。みみたぶに、朱色か瑠璃色のちいさな蜘蛛を」

「良い趣味だ」

期待に反して、Rは怒らなかった。すこし拍子抜けして振り返ろうとする。と、Rは素早く、細い舌でわたしの耳をくすぐった。

「っ、」

からだを小刻みにふるわせるわたしの肩から手を離し、Rは、『呆れた』という偽薬をシュガーコートにくるんでため息を吐いた。

「そんなに虐めて欲しい訳?」

「……蜘蛛をね、」

「え?」

にや、と微笑んだわたしの、いつにない妖女ぶりに、Rは怪訝な顔をする。

「蜘蛛を描いて。わたしの耳に」

 瞬間、腕が、抜けそうなほど強く引かれ、わたしは椅子から引きずりだされるようにしてRの胸のなかに収まった。くちびるが耳元をかすめ、耳朶に牙がたてられる。

 わたしの耳は蜘蛛の緋色に鬱血しているだろう。そう思い、声を殺してこの荒々しい愛撫を受けいれる。

「いつか、描いてあげるよ」

 溺れている者の深い声で、押し込めた激情の旋律でそう呟き、Rは、耳のなかに舌をすべり込ませる。もう一度、ほんの一瞬、つよく疵を噛む。

「今はこれで我慢して」

紅く腫れつつある傷痕を舌で癒し、そのままRは、折れそうなほどに激しくわたしをかき抱いた。

 誘惑に、刻印で報いたRの腕のなか、わたしは死の恍惚に目を閉じる。

 Rの、たしかなからだが此処にある。

 遠かった、だから誘った、引きよせた。

 

 もう、わたしのものだわ。

  

 

              *  

 

      ことばは総て真夏の戯れ、

      わたしたちはを来世を視ない。

 

                  

 

                   fin

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