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召しませフィルトル 桜鬼弓女
木々が葡萄酒の色に染まり、焼き栗のにおいが辻々をめぐりだす季節。
僕のからだが兄さんの体温に触れることができるようになって、二度目の秋が訪れた。
葡萄酒色の木々、と云ったけれど、ほんもののワインも新酒が出回りはじめた。二ヶ月後に二十歳の誕生日を迎えるゆえにか、嗜好品がチョコレエトやキャンディではものたらなくなってきたらしい兄さんのために、僕はコートのポケットのなかの焼き栗をもてあそびながら、街はずれの酒屋に足を向けた。
「いらっしゃいませー!! あら、アル!」
ドアを開けると、弾むアルトが迎えてくれた。ゆるくウエーブのかかった黒髪が、薄紫のブラウスの肩で踊る。ここの看板娘、ミュゼットだ。歳はたぶん、僕とプラマイ二歳違い。
「こんにちは、ミュゼ。今年のワイン、もう出てる?」
「ん、グッドタイミングよ! 昨日、馬車便が届いたところ。今年は川の南岸の葡萄の出来が良かったから、歴史に残るワインが出来たかもしれないんですって。仲買人のおじさんが自慢げにしてたわ~。……紅にする? それとも白?」
「う~ん、さっき鴨を買ったんだけど……」
「なら、紅がいいわ。アルマンデイン、っていうワインはどう?柘榴みたいに赤くて、薫りがすごくいいの。テーブルワインにするにはちょっと惜しいけど」
「なら、それ。それから、山羊のチーズ、キュウリのピクルス、……と、ミード(蜂蜜酒)」
「ミード?」
棚からピクルスの瓶を取りながら、ミュゼは顔だけをこちらに向けて怪訝な表情をした。
「お客さんでも来るの? あれ、けっこう甘いわよ。アルの好みって、ビールとか、ウイスキィとか……ワインでも辛口だったわよね?」
「僕のじゃないよ。兄がほしがるんだ」
「お兄さん?」
「……ん、寝酒にするから、飲みやすくて割に強いのを買ってあげたくて」
最近、兄さんは寝酒をおぼえた。
食事時に軽い酒を飲むのは、水の悪いこの土地では当たり前の習慣なので、十歳になるやならずの子どもたちだって、両親に連れられていくレストランで、薔薇色のくちびるをとがらせて「びーる、」と所望する。
けれど、兄さんはアルコールにはどちらかというと弱い質だ。だから、ピッチがゆっくりだとはいえ、急に酒類に興味を持つようになったのは、たしかに、意外だった。
そのくせ、絶対に兄さんは酒豪にはなれない。チョイスを見れば分かるのだけれど、甘い酒、フルーティーな酒を好むのだ。
僕からすれば、すくなくとも味だけ見れば、ジュースとたいしてかわらない。なら、ジュースでいいじゃない、と思ってしまうのだけれど、まあ、兄さんの『酒』は陽気で愉しくて可愛いので、僕もいい気になって飲ませているのだ。
「そっか、そんな可愛い男の人いるのね。……安心しちゃった」
「え?」
「あ、ううん、なんでもないの! あ、そうだ、アル、クッキーなんて食べる?」
ミュゼはなぜか真っ赤になってぱたぱたしている。急に店の奥に行ってしまったかと思うと、ギンガムチェックのクロスがかけられた小さな籠を持って戻ってきて、きらきら光る瞳で僕を見上げた。
「え、好きだ……けど、」
「よかったぁ。さっき焼き上がったとこなの。キャラメルを刻んで入れたの。あつあつのうちはキャラメルがとろっとしてておいしいのよ。冷めたら固まっちゃって歯が立たないから、帰ったらすぐにお茶にしてね」
「ありがとう、ミュゼ。ごちそうになるよ」
微笑んで云うと、ミュゼは満面の笑みで応えてくれた。
「また、感想きかせて?」
はずかしそうにそう云って、ぐいと品物を渡すミュゼの顔を見て、僕は、「さて、兄さんは珈琲と紅茶とどちらをほしがるだろう」と、家で待つ「ねこ」を想いながら、いいにおいをたてる包みを受け取った。
「ただいま……っと、兄さん?」
ドアを開けると、リビングの床いっぱいに広げられた本のなかで、片膝をたてて座った兄さんが、ノートをそのたてた膝に抱えてなにか書き込んでいるところだった。
ウルトラマリン、バーガンディー、エメラルドグリーンやチョコレイトブラウンなどなど、色とりどりの布で装幀されたハードカヴァー。
砂色や黒炭色の簡素な表紙の、私家版の小冊子。
広げられた一冊の上に身をかがめ、無心に読んでは離れ、また別の一冊の上に身を乗り出す。
(………ハーレム?)
その姿は、花から花へ蜜をつまみ食いする蝶に見えないこともない。金の髪のひとすじが、ランプの燈に濡れたように光った。
過度の頭脳労働で、蒼ざめて見える膚、水晶のように透徹なカナリア色の瞳。昂奮がそこだけ顕れた、やけに紅い唇は、ほんのすこし、とがらせたような形で結ばれている。
誘惑的な美を裏切って、心の中になんの艶事もひそめてはいない。
僕すらも、いない。
(こんなに、奇麗なのに)
(求道者の罪って、こういう、心と姿のギャップかな)
とにかく、夢中になっているから、刺激しないように、僕はそっとドアの前を通り過ぎてキッチンに向かった。
読書中の兄さんに話しかけても、返ってくるのは生返事、あるいはうるさいと云わんばかりの苛立たしげな反応だけ。
つまらない、と拗ねるより、お茶を淹れる方がずっと建設的だ。
「……僕も大人になったよなぁ」
ちょっと紅くなりながら、拗ねた風に呟いて、僕はウヴァ茶の缶を手にとった。
すこしの蒸留酒を入れたロシアンティの、香気ある湯気に鼻をうごめかせ、ようやく兄さんの心が僕のいる「日常世界」へと還ってきた。
「あ、アル、おかえり、いつ帰ったんだ?」
「十分くらい前だよ。……なに調べてたの?」
僕は、カップをひとつ、兄さんに手渡してから、床に手をついて、開かれたままちりばめられた無数の本を眺めまわした。
「『トリスタンとイゾルデ』、『真夏の夜の夢』、『ソロモンの薬』、『ファウスト』、『アナンガランガ』、『レイラとマジュヌン』、『金瓶梅』……」
書名を読み上げる自分の声が、一冊ごとにややかたくなっていくのを、僕ははっきりと自覚していた。
兄さんは、ゆっくりと紅茶の香りを楽しんでいる、ふりをしている。
「…………兄さん?」
「なんだイ、あるふぉんす?」
真珠色の犬歯が七色に乱反射するような、無意味にさわやかな笑顔で兄さんは応える。
「基本的に花はいいらしいよ」
「う、うん、いいよな、花はやっぱり気持ちを明るくするよな」
「あと、お酒。蒸留酒に漬けこむとエキスがよく出るから、薔薇酒とかヴァニラ酒とかが手っ取り早いんだって」
「あ、甘くて飲みやすいだろうな。甘いものは気を落ち着かせるって云うしな。砂糖菓子をあらわす『ハーツイーズ』って単語は『心のなぐさめ』っていう意味らしいし、やっぱ糖分は心身の健康維持に必要だよな」
「『甘くとろける』って感じ?」
「そう、『リラックス』!」
あはははは、と、ご不浄にシャンデリアをきらめかせるような笑いがこの部屋を冷却しながら満たした。
「誰に使うつもりだったの?」
「え?」
左の口角がひくひくと上へ下へさまよう。
「調べてたんだよネ?『フィルトル(媚薬)の作りかた』。」
にっっっこり笑ってさしたトドメに、兄さんはクルミ割り人形になったように固まった。
「ね、に・い・さん?」
ブッキョウの『不動明王』のごとく紅蓮の炎を背負って問いかける。
「ごごご誤解だアル!」
「使いたいわけ? 使われたいわけ? 怒らないから云って御覧?」
「いやほんと、誤解だって!!」
そういう兄さんの声音は、浮気がばれた亭主のものというよりは、悪戯がばれた生徒のものだった。なつかしいダブリスの師匠の家。お客様用の菓子をつまみ食いして、結果、失禁しそうになりながらも師匠の目をまっすぐに見てゲンコを待っていた十年前の悪戯小僧と、少なくとも容姿だけは非の打ち所のない美青年とった現在の兄さんが、何の違和感もなく重なった。
(……ん、)
そう思ってあらためて本たちを見てみると、なるほど、兄さんには何のやましいところもなさそうなことが解った。
「どれも強力な媚薬が登場する本だけど、文学作品ばかりだね。魔術書はこれとこれとこれ、と、これの四冊だけ……か」
手にとってぱらぱらと見てみる。
「……ギャグだね、この」
「だろ!?」
兄さんは、我が意を得たりというふうに、鼻息荒くうなづいた。
僕は目についたレシピを読み上げる。
「『アカヤマアリとアルコールと水』、『マンドラゴラの根とハンミョウとクマツヅラ』」
兄さんも一冊拾って読み上げる。
「『アボガドの種をすり下ろし、白ワイン一リットルに八時間つけた薬酒を、午後四時頃と就寝前にリキュウルグラス一杯づつ飲む』」
「これヘン。『青いバナナを炭火で焼き、蜂蜜をつけて食べる』」
「こっちの方が笑えるぜ。『パイナップルの皮をむき、白ワイン一リットルに八時間つけ、蜂蜜を入れる。一日にグラス一杯飲む。用法を厳守すること』」
「『メルジーネ・ベリーのジャムとオレンジマーマレードを白ワインで煮詰め、ショウガ水を加えてでのばしたものを夕食前に飲む。一日に二杯まで。用法厳守』。おいしそうだね」
「何で『用法厳守』かぁ?」
「そんだけ効くって云いたい……のかなぁ?」
「をつけるためのハッタリにしてはかわいいだろ?」
ほかの本も開いてみる。ななめ読み。そして、もう一冊。
「僕らの世界の薬とはちょっと違うね」
「だろ? 錬金術でつくる薬に較べたら眉ツバそのもの、というか、詐欺そのものな処方がほとんどなんだよな。特に媚薬の処方は、まるっきりギャグ、信憑性ゼロなんだよ。けど、だからこそ、この処方のどこら辺にこっちの人たちは効力の根拠を認めているのかが興味深くてさ」
「……で、」
僕は両手でぱたんとハードカヴァーを閉じ、ぐいと兄さんに顔を近づけた。
「やましいことがないなら、なんであんなに慌ててたわけ?」
そう云っておいてから、兄さんの目を見つめたまますこし身をひき、ミュゼにもらったクッキーをすすめる。
「あ、サンキュ。いや、ぶっちゃけポルノまがいっつうか、結構えげつない『資料』もあったから、保護者としてはちょっと肩身が狭かっ……、て、……あれ? このクッキー、あったけー。焼きたて?」
「あ、うん。酒屋でもらったんだよ」
「酒屋ぁ? パン屋じゃなくて?」
そう云いながら、兄さんはうれしそうに三枚目をつまみあげる。「うん。寝酒と料理酒買いに行ったら、今日はミュゼが留守番しててさ。なんか、焼きたてだっていって分けてくれたんだ」
そう云い終わらないうちに、兄さんは、ぽりん、と音をさせてキャラメルクッキーを噛み割り、ものすごい表情で僕を見た。
「……兄さん?」
反応の異常さに、僕はクッキーをつまんだ手を思わず口許で止めて兄さんの目を見つめた。
感情のそげ落ちた顔。けれど微量の衝動――たとえば怒りに似たもの――で、兄さんの膚はうっすらと輝いている。
「ミュゼって、あの黒髪の娘だろ? 緑色の目した」
「あ、そうだね、緑だったと思う。いや、青じゃなかったっけ?」
「緑だよ。まえは黒縁の眼鏡かけてた娘だろ?」
「え、眼鏡なんかかけてないよ」
「おまえがあの店に行くようになってから眼鏡やめたんだよ。髪も流行の長さに切ってコテでウエーブ当てたんだよ」
「そうだっけ? よく見てるね」
「おっまえ……ふざけてんのか?」
「え? ……兄さん、好きだったの?」
「ばっかやろおっっ! 誰があんな女に興味あるか! 云い寄られてんのはおまえだ! 少しは自覚しろこの天然タラシ!! 」
「タ……?」
兄さんは絶句した僕の手からクッキーを奪い取り、ついでに皿のなかのクッキーも全部さらって、まとめて口に詰め込み、一気にぼりんとかみ砕いた。
「あ」
僕は力無く声を上げた。本当に、止める隙などなかったのだ。
「むぉんふあっは(文句あっか)」
顔を変形させてまでおやつを独り占め。これが、外見年齢十五歳の弟に対する十九の兄の所業だろうか。
「……おいしい?」
しかたなく僕は訊いた。今更どうこう云ってもクッキーは戻らない。
「おまえが作ったのの方がマシ」
「…………………。」
可愛いんだか可愛くないんだか。結局、やきもちということだろうか。僕はそっとため息を吐いた。
ようするに、他人の愛情表現のあらわれを僕に食べさせたくなかったらしい。『小姑オニ千匹』というのはこういうことかな、と思い知ったけれど、兄さんは真の意味では『小姑』ではないのだ、僕は自分のうかつさに少し胸が冷えた。
けれど、しつけはしつけだ。
「……兄さんって、女の子の敵だよね」
「おまえに云われたくねーな、この女泣かせ」
「なんで泣かせるはめになってると思ってるのさ」
「不特定多数の人間に必要以上に優しくするからだろ?」
どこか遠いところで何かがぷつんとキレる音がした。
「兄さんの弟に生まれたせいで僕はこうなっちゃったんじゃないか!」
「オレの性格が悪いのは生まれつきだ! てめえのケツぐらい自分でふける! フォロー担当者になるようにし向けた覚えはない!」
「そっちの意味じゃない! この犯罪者!」
「誰が犯罪者だ!」
「犯罪者だろ! 僕が生まれる家に先回りして生まれて僕を待ちかまえてたくせに! お蔭で兄さんしか見ずに育っちゃったじゃないか! 罠が姑息すぎる!」
「何の云いがかりだそれは! おまえこそ何でオレの弟なのにオレに似てないんだよ! オレにはナルシストの素質はない、おまえがオレにそっくりだったらとっくに弟離れできてたんだ! 同族嫌悪って云う逃げ道くらい残しとけ! この腹黒!」
こうなったらもう止まらない。
僕と兄さんは、相手が何を云っているのか半分も理解しないまま不毛な云いあいを続けた後に、兄さんは書斎、僕は寝室、それぞれのドアを家が鳴るくらいの大音を響かせて閉めて、立てこもったのだ。
「……のど、かわいた」
四時間後、星あかりの寝室。二つ並んだベッドの片方で、僕は枕を抱いたままぽつりと呟いた。
兄さんは、部屋に帰ってこない。そういえば、夕飯を用意していなかったことを思い出す。……兄さん。
「おなか、すかせてないかな」
僕はのろのろと起きあがって上着を羽織り、台所へ向かった。
(……あれ?)
台所の手前にある、食料貯蔵庫の扉が開いている。
(僕、閉め忘れてたかな)
何気なく扉を閉めて台所へ顔を向ける。――と、なんとも云えない、甘いいいにおいがした。
おもわず足をはやめる。台所のドアはちいさく開いている、いいにおいはますます濃く強くなる――。
「――兄さん、」
声をかけると、エプロン姿の兄さんが、たいして驚きもせずにふりかえった。手に何かトレイを持っている――と、そのトレイを僕にぐいっと差しだした。
発酵バターのにおいのする湯気を立てた、チーズクッキーが十八枚。
「焼きたて」
ぶっきらぼうに呟いて、にっと笑う。
のどがかわいているのを忘れて、おもわず一枚、くちに入れた。
「おいしい!」
「だろ?」
粉をちょっと練りすぎたみたいで、クッキーと云うよりはビスケットに近かったけれど、これは、ものすごく贅沢な味のするお菓子だった。
「もう一枚もらっていい?」
「もちろん。……オレの勝ち、だな?」
ミュゼのクッキーと較べて?
あたりまえじゃないか。最初から、僕は兄さんのものなのに。兄さんを、選んでるのに。
不安に、させてたんだね。僕は、ちょっと、涙をにじませてしまいそうになった。
「すごく、好きだよ。……もらうね、」
頬をほころばせてトレイに伸ばした手が、ちょっと止まって、僕はかるく咳き込んだ。かわききったのどを、クッキーの粉が刺激したのだ。
「大丈夫か?」
兄さんは、硝子製のピッチャーに輝く、オレンヂ色の飲み物をグラスに注いで僕の手に持たせてくれた。背中を、あたたかな手でさすってくれる。僕はグラスのなかの液体を一息に飲み干した。
「もう一杯いるか?」
うなづく。
なみなみと、薫り高い、つめたい飲み物が注がれた。
のどのいがいがもすこし収まって、今度は、この飲み物を味わう余裕があった。
不思議な味がする。ジュースかと思っていたけれど、かるくアルコールが入っているみたいだ。
カクテルを作るほどに兄さんがお酒を好きだとは、ほんとに僕は知らなかった。
「変わった味のお酒だね……これ何ていうの?」
「ん?『メルジーネ・ベリーのジャムとオレンジマーマレードを白ワインで煮詰め、ショウガ水を加えてでのばしたもの』」
おもわず、ぶっと噴いてしまった。
聞き覚えのある、そして聞き捨てならないレシピだ。
「それ媚薬じゃないか! どういうつもり!?」
「え? 効くわけねーじゃんこんなの」
「万が一効いたらどうするんだよ!?」
兄さんはきょとんとして答えた。
「え? 責任とるぜ?」と。
そこで僕ははじめてことの重大さに気がついた。
よく見ると、テーブルの上には兄さんのグラスが当たり前のように載っていて、ピッチャーのなかの液体の水位は僕にすすめてくれた時点ですでに半分を切っていたのだ。
「……飲んだんだね」
「え? ああ。飲みながら作ったんだもんよ、このクッキー。のどかわいたから、何か変わったジュース飲みてーな、と思ってまずこれ作って、一杯飲んでから粉はかって……」
「だからって何で媚薬作るわけ!?」
「うまそうだったんだもん。おまえもそう云っただろ?」
「そうじゃなくて何でわざわざ危険物作って飲むんだよ!?」
「だから効かねーってこんなの……」
と云いながら兄さんは襟元のボタンをひとつ外して吐息をついた。いつもの兄さんにない、のろのろとした動作が妙になまめかしい。
ぎょっとしてよくよく顔を見ると、瞳が涙の膜につつまれてゼリーのようにきらきら潤んでいるし、頬から首筋にかけての膚は、うすい薔薇色にっていた。
効いてるんじゃないのかコレ。
僕はだらだらと冷や汗をかきそうだった。
とにかく寝かしつけよう、こんな兄さんにうろうろされたら、今日こそ僕の理性がぶち切れてしまう。
本当に媚薬に侵されてるとしたら、体格差はあまりないから、どちらが喰われるか予測がつかないのもおそろしい。
そしてなにより、よりにもよって媚薬のせいで一線を越えるなんて事態は絶対に赦せなかった。
「に、兄さん、クッキーごちそうさま。ありがとね。きょ、今日はもう寝た方がいいよ。今ベッドととのえるから部屋へ行こう?」
「ん~、おまえが寝るなら寝る~」
いつになく素直な答えにほっとしてきびすをかえすと、兄さんが後ろからぺたぁっ、としがみついてきた。
「に、ににに兄さ……、」
「きもちいー……。おまえあったかいな~……」
うれしそうに云って、僕の首筋に頬を寄せる兄さんの体のほうが、よっぽど熱い。僕は完全にかたまっていた。理性と衝動と、そして兄さんの体温と声の艶にがんじがらめにされて、動けない。
「アル心臓ばくばくいってる……」
兄さんの熱い、すこし汗ばんだ手のひらが僕の胸をゆっくりとなでる。呼吸すらできない。いま、息を吸ったら、吐息するその時に、兄さんの唇をとらえてしまいそうで――。
「くるしいんじゃねーか? ちょっと襟ゆるめろよ……」
背中越しに僕のシャツのボタンがひとつ、ぶたつはずされ、ひらかれた襟のなかに兄さんの指がすべりこんできた。
「……!! ちょ、ちょっっっと待って兄さ……!」
おもわず手を押しのけて身をねじり、兄さんと向き合って肩をとらえる。
「……ヤなのかよ」
雨に濡れた野良猫がそれでも虚勢をはるような痛々しい表情で、せつなげに、吐息するようにそう云って……そっと、その誘惑的なくちびるを僕に寄せてき……、
(――ああ、もう!!)
どうにでもなれ! 一瞬違いで、僕の方が主導権をにぎるかたちになった。深い深い、天も地も蜜のなかに融けて原初のに還るようなキス。
脚のちからが抜けてキッチンの床に膝をついた兄さんの脚をすくい、横抱きにするようなかたちで腕にとらえてから、兄さんの頭をひきよせて上からもう一度くちづける。かみつくように。
「……っ……、ん……ぁ、っん、ア…ル……」
猫だ。気まぐれで横暴なところは猫科の獣の風格があると思ってはいたけれど、このひとは本当に、猫みたいな声で僕を呼ぶ。
すべらかな長い髪を指で梳くと、感じ入ったように目を閉じてちいさく甘い声でうめく。
林檎のように紅く充血したくちびるの端から、シロップのような唾液がすこしこぼれる。僕はそれを舌でぬぐい、人指し指で顎をすくって、かたちよくとがったところをそっと甘噛みした。
首筋にくちびるを押しあてる。命が流れる律動が僕のくちびるに伝わる。おもわず吸いつく、そうしながら舌でなぶる。
吸血鬼がなぜ首筋から血を吸うのかが理解できた。それは、ここが愛する者の生命を感じられる場所だから、なめらかで、しろく、くちづけを誘う場所だから、生と性と聖が感じられる場所だから―――。
首筋に噛みつきながら胸の苺を指で転がして、僕の指の動きひとつひとつにびくびくと震える甘いからだを愉しむ。
兄さんはひどく敏感になっていて、僕はすこし残酷になっていた。はなびらのかたちに僕の情熱が刻まれた白い肌。
涙を見てみたい。
僕のものに、したい。
兄さんのベルトに手を掛ける。
留め金を外して引き抜こうとすると、兄さんが身をよじった。それが僕を助けるような動きかただったので、ベルトは一瞬で引き抜かれ、ゆるんだ布のなかで、細い、締まった腰がかすかにあらがうようによじられた。
「アル……」
呼ばないで。
「ア…ル……」
呼ばないでよ兄さん!
いま手を掛けたら、もう僕はあなたの弟じゃなくなる。
それでもいいの? それが解っていて呼ぶの?
それが解っていて、誘うの?
僕のためらいをついて、兄さんが半身を起こし、首に抱きついてそっと僕のくちびるを舌でこじあけた。
自分から舌をからめてきたくせに、兄さんのその舌の動きは、どこかうつろだった。
夢でもみているかのように、肝心なところで頼りなく、僕のを煽る。
本当に、このひとは解っているのだろうか。
自分がいまくちびるを赦している相手は、自分の血を分けた実の弟だと解っているのだろうか。同じ胎内で同じように過ごして生まれた兄弟だと、それでも恋することをやめられない相手だと解ったうえで、この甘い舌をゆだねているのだろうか。
思わず噛んでやりたくなる、そして、喰い尽くしてやりたくなる。
憎しみに似たキス、愛しみで満たされた欲望。
ふいに、兄さんのが、僕の腕のなかでえた。
きよらかな朝のひかりが台所をまっすぐに貫いてあたためる。
僕は痛む目をこすりながらベーコンを炒め、スライスしたジャガイモを加えて胡椒をふっていた。
頭はがんがんして、そのくせ妙に冴えかえっている。目は腫れていて、しゃれじゃなく、朝陽に殺られてしまいそうだ。
そのとき、スリッパを引きずるようにして歩く足音が近づいてきて、『悪の大魔王・極悪人・第一級恋愛罪で無期懲役が決定された人非人』こと、エドワード・エルリックが顔を見せた。
「おはよ~、早いな、アル……」
「おはよう。」
ああ、顔が怒りで引きつる。
「なんかオレ、あったま痛くてさあ……風邪でもひいたかな……」
「ひけばよかったのに。」
「何か云ったかぁ?」
「はい、アスピリン。」
どかっと薬瓶を兄さんの前に置き、僕は氷水を清潔なグラスに注いでこれもテーブルに音を立てて置いた。
「アル、ひ、響くから……優しくしてくれよ……」
「ただの二日酔いだよ。それ飲んだらリンゴ食べて水飲んで寝て。半日で治るから」
「二日酔い~? 何でオレが二日酔いなんかになって……、」
と、そこまで云った兄さんが、息を呑んで固まった。
「さて? 何でだろおね、に・い・サ・ン?」
「ア、アル?」 。
僕はこめかみに青筋を立てながらにっこり笑って、リンゴを剥きはじめた。
二日酔い。
そう、二日酔いなのだ。
僕は、兄さんが作った『媚薬』のレシピを思い返した。
『メルジーネ・ベリーのジャムとオレンジマーマレードを白ワインで煮詰め、ショウガ水を加えてでのばしたもの』。
白ワインとリンゴ酒。ようするに、あれはカクテルなのだ。
そんなものを、僕とけんかして夕飯を食べ損ねた兄さんが、『のどがかわいたから』とか云って、空きっ腹にがぶ飲みしたのだ。酒に弱いくせして。
ようするに、昨夜の兄さんの媚態は、媚薬に侵されていたのではなく、空きっ腹に入れたアルコールのせいでただ単に酔っぱらっていただけ。
その気になった僕をおっぽりだして、つつこうが撫でようがキスしようが無反応で、朝まで高いびきで爆睡していたのだ、このひとは。
「……酔っぱらいだからといたわらずに、いっそ犯してやれば善かった……」
心もからだも暴走したまま、一晩放り出された僕をどうしてくれる。鎮めるのが大変だった。ええ、そりゃあもう。
「……な、ななな何か云ったか、アル?」
兄さんは、かなり本気でおびえている。
これ以上いじめるとお互い取り返しがつかなくなるし。
もとはと云えば、僕が誤解されるようなことをしたのが悪いんだし。
もうしばらく、僕ら兄弟の危うい関係は続きそうだ。そう、『兄弟』のまま。
ただ、酒屋には、もう当分行かない。
我が家から酒を駆逐する意味でも、兄さんの心を護る意味でも。
「ごめんね」
僕は、黒髪の少女の面影にひとことだけ謝った。
「ん? 何か云ったか?」
兄さんが、リンゴをしゃりしゃりと噛みながら首を傾げる。
「僕は媚薬なんか盛られなくても兄さんが好きだし、兄さんは媚薬なんか飲まなくても魅力的だよ、って云ったんだよ」
兄さんが咳き込むのと、僕が二個めのリンゴをむき終わるのと同時だった。
兄さんの背中をさすって落ち着かせ、ちからが抜けたところで、切り分けたリンゴをひとかけくわえてそっと誘う。
リンゴの反対側の端に、ためらいがちに齧り付いた兄さんの髪を撫で、首の、『ある部分』をちょっと強く刺激する。
「!?!?!?!?!?」
ことばにならない声を上げてリンゴよりも紅くなった兄さんの顔が見れて、とりあえず僕は大満足。
兄さんの『弱点』を教えてくれた『フィルトル』に感謝して、僕の新しい一日ははじまった。
兄さんを愛するための、新しい一日が。
fin.
木々が葡萄酒の色に染まり、焼き栗のにおいが辻々をめぐりだす季節。
僕のからだが兄さんの体温に触れることができるようになって、二度目の秋が訪れた。
葡萄酒色の木々、と云ったけれど、ほんもののワインも新酒が出回りはじめた。二ヶ月後に二十歳の誕生日を迎えるゆえにか、嗜好品がチョコレエトやキャンディではものたらなくなってきたらしい兄さんのために、僕はコートのポケットのなかの焼き栗をもてあそびながら、街はずれの酒屋に足を向けた。
「いらっしゃいませー!! あら、アル!」
ドアを開けると、弾むアルトが迎えてくれた。ゆるくウエーブのかかった黒髪が、薄紫のブラウスの肩で踊る。ここの看板娘、ミュゼットだ。歳はたぶん、僕とプラマイ二歳違い。
「こんにちは、ミュゼ。今年のワイン、もう出てる?」
「ん、グッドタイミングよ! 昨日、馬車便が届いたところ。今年は川の南岸の葡萄の出来が良かったから、歴史に残るワインが出来たかもしれないんですって。仲買人のおじさんが自慢げにしてたわ~。……紅にする? それとも白?」
「う~ん、さっき鴨を買ったんだけど……」
「なら、紅がいいわ。アルマンデイン、っていうワインはどう?柘榴みたいに赤くて、薫りがすごくいいの。テーブルワインにするにはちょっと惜しいけど」
「なら、それ。それから、山羊のチーズ、キュウリのピクルス、……と、」
「ミード?」
棚からピクルスの瓶を取りながら、ミュゼは顔だけをこちらに向けて怪訝な表情をした。
「お客さんでも来るの? あれ、けっこう甘いわよ。アルの好みって、ビールとか、ウイスキィとか……ワインでも辛口だったわよね?」
「僕のじゃないよ。兄がほしがるんだ」
「お兄さん?」
「……ん、寝酒にするから、飲みやすくて割に強いのを買ってあげたくて」
最近、兄さんは寝酒をおぼえた。
食事時に軽い酒を飲むのは、水の悪いこの土地では当たり前の習慣なので、十歳になるやならずの子どもたちだって、両親に連れられていくレストランで、薔薇色のくちびるをとがらせて「びーる、」と所望する。
けれど、兄さんはアルコールにはどちらかというと弱い質だ。だから、ピッチがゆっくりだとはいえ、急に酒類に興味を持つようになったのは、たしかに、意外だった。
そのくせ、絶対に兄さんは酒豪にはなれない。チョイスを見れば分かるのだけれど、甘い酒、フルーティーな酒を好むのだ。
僕からすれば、すくなくとも味だけ見れば、ジュースとたいしてかわらない。なら、ジュースでいいじゃない、と思ってしまうのだけれど、まあ、兄さんの『酒』は陽気で愉しくて可愛いので、僕もいい気になって飲ませているのだ。
「そっか、そんな可愛い男の人いるのね。……安心しちゃった」
「え?」
「あ、ううん、なんでもないの! あ、そうだ、アル、クッキーなんて食べる?」
ミュゼはなぜか真っ赤になってぱたぱたしている。急に店の奥に行ってしまったかと思うと、ギンガムチェックのクロスがかけられた小さな籠を持って戻ってきて、きらきら光る瞳で僕を見上げた。
「え、好きだ……けど、」
「よかったぁ。さっき焼き上がったとこなの。キャラメルを刻んで入れたの。あつあつのうちはキャラメルがとろっとしてておいしいのよ。冷めたら固まっちゃって歯が立たないから、帰ったらすぐにお茶にしてね」
「ありがとう、ミュゼ。ごちそうになるよ」
微笑んで云うと、ミュゼは満面の笑みで応えてくれた。
「また、感想きかせて?」
はずかしそうにそう云って、ぐいと品物を渡すミュゼの顔を見て、僕は、「さて、兄さんは珈琲と紅茶とどちらをほしがるだろう」と、家で待つ「」を想いながら、いいにおいをたてる包みを受け取った。
「ただいま……っと、兄さん?」
ドアを開けると、リビングの床いっぱいに広げられた本のなかで、片膝をたてて座った兄さんが、ノートをそのたてた膝に抱えてなにか書き込んでいるところだった。
ウルトラマリン、バーガンディー、エメラルドグリーンやチョコレイトブラウンなどなど、色とりどりの布で装幀されたハードカヴァー。
砂色や黒炭色の簡素な表紙の、私家版の小冊子。
広げられた一冊の上に身をかがめ、無心に読んでは離れ、また別の一冊の上に身を乗り出す。
(………ハーレム?)
その姿は、花から花へ蜜をつまみ食いする蝶に見えないこともない。金の髪のひとすじが、ランプの燈に濡れたように光った。
過度の頭脳労働で、蒼ざめて見える膚、水晶のように透徹なカナリア色の瞳。昂奮がそこだけ顕れた、やけに紅い唇は、ほんのすこし、とがらせたような形で結ばれている。
誘惑的な美を裏切って、心の中になんの艶事もひそめてはいない。
僕すらも、いない。
(こんなに、奇麗なのに)
(求道者の罪って、こういう、心と姿のギャップかな)
とにかく、夢中になっているから、刺激しないように、僕はそっとドアの前を通り過ぎてキッチンに向かった。
読書中の兄さんに話しかけても、返ってくるのは生返事、あるいはうるさいと云わんばかりの苛立たしげな反応だけ。
つまらない、と拗ねるより、お茶を淹れる方がずっと建設的だ。
「……僕も大人になったよなぁ」
ちょっと紅くなりながら、拗ねた風に呟いて、僕はウヴァ茶の缶を手にとった。
すこしの蒸留酒を入れたロシアンティの、香気ある湯気に鼻をうごめかせ、ようやく兄さんの心が僕のいる「日常世界」へと還ってきた。
「あ、アル、おかえり、いつ帰ったんだ?」
「十分くらい前だよ。……なに調べてたの?」
僕は、カップをひとつ、兄さんに手渡してから、床に手をついて、開かれたままちりばめられた無数の本を眺めまわした。
「『トリスタンとイゾルデ』、『真夏の夜の夢』、『ソロモンの薬』、『ファウスト』、『アナンガランガ』、『レイラとマジュヌン』、『金瓶梅』……」
書名を読み上げる自分の声が、一冊ごとにややかたくなっていくのを、僕ははっきりと自覚していた。
兄さんは、ゆっくりと紅茶の香りを楽しんでいる、ふりをしている。
「…………兄さん?」
「なんだイ、あるふぉんす?」
真珠色の犬歯が七色に乱反射するような、無意味にさわやかな笑顔で兄さんは応える。
「基本的に花はいいらしいよ」
「う、うん、いいよな、花はやっぱり気持ちを明るくするよな」
「あと、お酒。蒸留酒に漬けこむとエキスがよく出るから、薔薇酒とかヴァニラ酒とかが手っ取り早いんだって」
「あ、甘くて飲みやすいだろうな。甘いものは気を落ち着かせるって云うしな。砂糖菓子をあらわす『ハーツイーズ』って単語は『心のなぐさめ』っていう意味らしいし、やっぱ糖分は心身の健康維持に必要だよな」
「『甘くとろける』って感じ?」
「そう、『リラックス』!」
あはははは、と、ご不浄にシャンデリアをきらめかせるような笑いがこの部屋を冷却しながら満たした。
「誰に使うつもりだったの?」
「え?」
左の口角がひくひくと上へ下へさまよう。
「調べてたんだよネ?『の作りかた』。」
にっっっこり笑ってさしたトドメに、兄さんはクルミ割り人形になったように固まった。
「ね、に・い・さん?」
の『不動明王』のごとく紅蓮の炎をって問いかける。
「ごごご誤解だアル!」
「使いたいわけ? 使われたいわけ? 怒らないから云って御覧?」
「いやほんと、誤解だって!!」
そういう兄さんの声音は、浮気がばれた亭主のものというよりは、悪戯がばれた生徒のものだった。なつかしいダブリスの師匠の家。お客様用の菓子をつまみ食いして、結果、失禁しそうになりながらも師匠の目をまっすぐに見てゲンコを待っていた十年前の悪戯小僧と、少なくとも容姿だけは非の打ち所のない美青年とった現在の兄さんが、何の違和感もなく重なった。
(……ん、)
そう思ってあらためて本たちを見てみると、なるほど、兄さんには何のやましいところもなさそうなことが解った。
「どれも強力な媚薬が登場する本だけど、文学作品ばかりだね。魔術書はこれとこれとこれ、と、これの四冊だけ……か」
手にとってぱらぱらと見てみる。
「……ギャグだね、この」
「だろ!?」
兄さんは、我が意を得たりというふうに、鼻息荒くうなづいた。
僕は目についたレシピを読み上げる。
「『アカヤマアリとアルコールと水』、『マンドラゴラの根とハンミョウとクマツヅラ』」
兄さんも一冊拾って読み上げる。
「『アボガドの種をすり下ろし、白ワイン一リットルに八時間つけた薬酒を、午後四時頃と就寝前にリキュウルグラス一杯づつ飲む』」
「これヘン。『青いバナナを炭火で焼き、蜂蜜をつけて食べる』」
「こっちの方が笑えるぜ。『パイナップルの皮をむき、白ワイン一リットルに八時間つけ、蜂蜜を入れる。一日にグラス一杯飲む。用法を厳守すること』」
「『メルジーネ・ベリーのジャムとオレンジマーマレードを白ワインで煮詰め、ショウガ水を加えてでのばしたものを夕食前に飲む。一日に二杯まで。用法厳守』。おいしそうだね」
「何で『用法厳守』かぁ?」
「そんだけ効くって云いたい……のかなぁ?」
「をつけるためのハッタリにしてはかわいいだろ?」
ほかの本も開いてみる。ななめ読み。そして、もう一冊。
「僕らの世界の薬とはちょっと違うね」
「だろ? 錬金術でつくる薬に較べたら眉ツバそのもの、というか、詐欺そのものな処方がほとんどなんだよな。特に媚薬の処方は、まるっきりギャグ、信憑性ゼロなんだよ。けど、だからこそ、この処方のどこら辺にこっちの人たちは効力の根拠を認めているのかが興味深くてさ」
「……で、」
僕は両手でぱたんとハードカヴァーを閉じ、ぐいと兄さんに顔を近づけた。
「やましいことがないなら、なんであんなに慌ててたわけ?」
そう云っておいてから、兄さんの目を見つめたまますこし身をひき、ミュゼにもらったクッキーをすすめる。
「あ、サンキュ。いや、ぶっちゃけポルノまがいっつうか、結構えげつない『資料』もあったから、保護者としてはちょっと肩身が狭かっ……、て、……あれ? このクッキー、あったけー。焼きたて?」
「あ、うん。酒屋でもらったんだよ」
「酒屋ぁ? パン屋じゃなくて?」
そう云いながら、兄さんはうれしそうに三枚目をつまみあげる。「うん。寝酒と料理酒買いに行ったら、今日はミュゼが留守番しててさ。なんか、焼きたてだっていって分けてくれたんだ」
そう云い終わらないうちに、兄さんは、ぽりん、と音をさせてキャラメルクッキーを噛み割り、ものすごい表情で僕を見た。
「……兄さん?」
反応の異常さに、僕はクッキーをつまんだ手を思わず口許で止めて兄さんの目を見つめた。
感情のそげ落ちた顔。けれど微量の衝動――たとえば怒りに似たもの――で、兄さんの膚はうっすらと輝いている。
「ミュゼって、あの黒髪の娘だろ? 緑色の目した」
「あ、そうだね、緑だったと思う。いや、青じゃなかったっけ?」
「緑だよ。まえは黒縁の眼鏡かけてた娘だろ?」
「え、眼鏡なんかかけてないよ」
「おまえがあの店に行くようになってから眼鏡やめたんだよ。髪も流行の長さに切ってコテでウエーブ当てたんだよ」
「そうだっけ? よく見てるね」
「おっまえ……ふざけてんのか?」
「え? ……兄さん、好きだったの?」
「ばっかやろおっっ! 誰があんな女に興味あるか! 云い寄られてんのはおまえだ! 少しは自覚しろこの天然タラシ!! 」
「タ……?」
兄さんは絶句した僕の手からクッキーを奪い取り、ついでに皿のなかのクッキーも全部さらって、まとめて口に詰め込み、一気にぼりんとかみ砕いた。
「あ」
僕は力無く声を上げた。本当に、止める隙などなかったのだ。
「むぉんふあっは(文句あっか)」
顔を変形させてまでおやつを独り占め。これが、外見年齢十五歳の弟に対する十九の兄の所業だろうか。
「……おいしい?」
しかたなく僕は訊いた。今更どうこう云ってもクッキーは戻らない。
「おまえが作ったのの方がマシ」
「…………………。」
可愛いんだか可愛くないんだか。結局、やきもちということだろうか。僕はそっとため息を吐いた。
ようするに、他人の愛情表現のあらわれを僕に食べさせたくなかったらしい。『小姑オニ千匹』というのはこういうことかな、と思い知ったけれど、兄さんは真の意味では『小姑』ではないのだ、僕は自分のうかつさに少し胸が冷えた。
けれど、しつけはしつけだ。
「……兄さんって、女の子の敵だよね」
「おまえに云われたくねーな、この女泣かせ」
「なんで泣かせるはめになってると思ってるのさ」
「不特定多数の人間に必要以上に優しくするからだろ?」
どこか遠いところで何かがぷつんとキレる音がした。
「兄さんの弟に生まれたせいで僕はこうなっちゃったんじゃないか!」
「オレの性格が悪いのは生まれつきだ! てめえのケツぐらい自分でふける! フォロー担当者になるようにし向けた覚えはない!」
「そっちの意味じゃない! この犯罪者!」
「誰が犯罪者だ!」
「犯罪者だろ! 僕が生まれる家に先回りして生まれて僕を待ちかまえてたくせに! お蔭で兄さんしか見ずに育っちゃったじゃないか! 罠が姑息すぎる!」
「何の云いがかりだそれは! おまえこそ何でオレの弟なのにオレに似てないんだよ! オレにはナルシストの素質はない、おまえがオレにそっくりだったらとっくに弟離れできてたんだ! 同族嫌悪って云う逃げ道くらい残しとけ! この腹黒!」
こうなったらもう止まらない。
僕と兄さんは、相手が何を云っているのか半分も理解しないまま不毛な云いあいを続けた後に、兄さんは書斎、僕は寝室、それぞれのドアを家が鳴るくらいの大音を響かせて閉めて、立てこもったのだ。
「……のど、かわいた」
四時間後、星あかりの寝室。二つ並んだベッドの片方で、僕は枕を抱いたままぽつりと呟いた。
兄さんは、部屋に帰ってこない。そういえば、夕飯を用意していなかったことを思い出す。……兄さん。
「おなか、すかせてないかな」
僕はのろのろと起きあがって上着を羽織り、台所へ向かった。
(……あれ?)
台所の手前にある、食料貯蔵庫の扉が開いている。
(僕、閉め忘れてたかな)
何気なく扉を閉めて台所へ顔を向ける。――と、なんとも云えない、甘いいいにおいがした。
おもわず足をはやめる。台所のドアはちいさく開いている、いいにおいはますます濃く強くなる――。
「――兄さん、」
声をかけると、エプロン姿の兄さんが、たいして驚きもせずにふりかえった。手に何かトレイを持っている――と、そのトレイを僕にぐいっと差しだした。
発酵バターのにおいのする湯気を立てた、チーズクッキーが十八枚。
「焼きたて」
ぶっきらぼうに呟いて、にっと笑う。
のどがかわいているのを忘れて、おもわず一枚、くちに入れた。
「おいしい!」
「だろ?」
粉をちょっと練りすぎたみたいで、クッキーと云うよりはビスケットに近かったけれど、これは、ものすごく贅沢な味のするお菓子だった。
「もう一枚もらっていい?」
「もちろん。……オレの勝ち、だな?」
ミュゼのクッキーと較べて?
あたりまえじゃないか。最初から、僕は兄さんのものなのに。兄さんを、選んでるのに。
不安に、させてたんだね。僕は、ちょっと、涙をにじませてしまいそうになった。
「すごく、好きだよ。……もらうね、」
頬をほころばせてトレイに伸ばした手が、ちょっと止まって、僕はかるく咳き込んだ。かわききったのどを、クッキーの粉が刺激したのだ。
「大丈夫か?」
兄さんは、硝子製のピッチャーに輝く、オレンヂ色の飲み物をグラスに注いで僕の手に持たせてくれた。背中を、あたたかな手でさすってくれる。僕はグラスのなかの液体を一息に飲み干した。
「もう一杯いるか?」
うなづく。
なみなみと、薫り高い、つめたい飲み物が注がれた。
のどのいがいがもすこし収まって、今度は、この飲み物を味わう余裕があった。
不思議な味がする。ジュースかと思っていたけれど、かるくアルコールが入っているみたいだ。
カクテルを作るほどに兄さんがお酒を好きだとは、ほんとに僕は知らなかった。
「変わった味のお酒だね……これ何ていうの?」
「ん?『メルジーネ・ベリーのジャムとオレンジマーマレードを白ワインで煮詰め、ショウガ水を加えてでのばしたもの』」
おもわず、ぶっと噴いてしまった。
聞き覚えのある、そして聞き捨てならないレシピだ。
「それ媚薬じゃないか! どういうつもり!?」
「え? 効くわけねーじゃんこんなの」
「万が一効いたらどうするんだよ!?」
兄さんはきょとんとして答えた。
「え? 責任とるぜ?」と。
そこで僕ははじめてことの重大さに気がついた。
よく見ると、テーブルの上には兄さんのグラスが当たり前のように載っていて、ピッチャーのなかの液体の水位は僕にすすめてくれた時点ですでに半分を切っていたのだ。
「……飲んだんだね」
「え? ああ。飲みながら作ったんだもんよ、このクッキー。のどかわいたから、何か変わったジュース飲みてーな、と思ってまずこれ作って、一杯飲んでから粉はかって……」
「だからって何で媚薬作るわけ!?」
「うまそうだったんだもん。おまえもそう云っただろ?」
「そうじゃなくて何でわざわざ危険物作って飲むんだよ!?」
「だから効かねーってこんなの……」
と云いながら兄さんは襟元のボタンをひとつ外して吐息をついた。いつもの兄さんにない、のろのろとした動作が妙になまめかしい。
ぎょっとしてよくよく顔を見ると、瞳が涙の膜につつまれてゼリーのようにきらきら潤んでいるし、頬から首筋にかけての膚は、うすい薔薇色にっていた。
効いてるんじゃないのかコレ。
僕はだらだらと冷や汗をかきそうだった。
とにかく寝かしつけよう、こんな兄さんにうろうろされたら、今日こそ僕の理性がぶち切れてしまう。
本当に媚薬に侵されてるとしたら、体格差はあまりないから、どちらが喰われるか予測がつかないのもおそろしい。
そしてなにより、よりにもよって媚薬のせいで一線を越えるなんて事態は絶対に赦せなかった。
「に、兄さん、クッキーごちそうさま。ありがとね。きょ、今日はもう寝た方がいいよ。今ベッドととのえるから部屋へ行こう?」
「ん~、おまえが寝るなら寝る~」
いつになく素直な答えにほっとしてきびすをかえすと、兄さんが後ろからぺたぁっ、としがみついてきた。
「に、ににに兄さ……、」
「きもちいー……。おまえあったかいな~……」
うれしそうに云って、僕の首筋に頬を寄せる兄さんの体のほうが、よっぽど熱い。僕は完全にかたまっていた。理性と衝動と、そして兄さんの体温と声の艶にがんじがらめにされて、動けない。
「アル心臓ばくばくいってる……」
兄さんの熱い、すこし汗ばんだ手のひらが僕の胸をゆっくりとなでる。呼吸すらできない。いま、息を吸ったら、吐息するその時に、兄さんの唇をとらえてしまいそうで――。
「くるしいんじゃねーか? ちょっと襟ゆるめろよ……」
背中越しに僕のシャツのボタンがひとつ、ぶたつはずされ、ひらかれた襟のなかに兄さんの指がすべりこんできた。
「……!! ちょ、ちょっっっと待って兄さ……!」
おもわず手を押しのけて身をねじり、兄さんと向き合って肩をとらえる。
「……ヤなのかよ」
雨に濡れた野良猫がそれでも虚勢をはるような痛々しい表情で、せつなげに、吐息するようにそう云って……そっと、その誘惑的なくちびるを僕に寄せてき……、
(――ああ、もう!!)
どうにでもなれ! 一瞬違いで、僕の方が主導権をにぎるかたちになった。深い深い、天も地も蜜のなかに融けて原初のに還るようなキス。
脚のちからが抜けてキッチンの床に膝をついた兄さんの脚をすくい、横抱きにするようなかたちで腕にとらえてから、兄さんの頭をひきよせて上からもう一度くちづける。かみつくように。
「……っ……、ん……ぁ、っん、ア…ル……」
猫だ。気まぐれで横暴なところは猫科の獣の風格があると思ってはいたけれど、このひとは本当に、猫みたいな声で僕を呼ぶ。
らかな長い髪を指で梳くと、感じ入ったように目を閉じてちいさく甘い声でうめく。
林檎のように紅く充血したくちびるの端から、シロップのような唾液がすこしこぼれる。僕はそれを舌でぬぐい、人指し指で顎をすくって、かたちよくとがったところをそっと甘噛みした。
首筋にくちびるを押しあてる。命が流れる律動が僕のくちびるに伝わる。おもわず吸いつく、そうしながら舌でなぶる。
吸血鬼がなぜ首筋から血を吸うのかが理解できた。それは、ここが愛する者の生命を感じられる場所だから、なめらかで、しろく、くちづけを誘う場所だから、生と性と聖が感じられる場所だから―――。
首筋に噛みつきながら胸の苺を指で転がして、僕の指の動きひとつひとつにびくびくと震える甘いからだを愉しむ。
兄さんはひどく敏感になっていて、僕はすこし残酷になっていた。はなびらのかたちに僕の情熱が刻まれた白い肌。
涙を見てみたい。
僕のものに、したい。
兄さんのベルトに手を掛ける。
留め金を外して引き抜こうとすると、兄さんが身をよじった。それが僕を助けるような動きかただったので、ベルトは一瞬で引き抜かれ、ゆるんだ布のなかで、細い、締まった腰がかすかにあらがうようによじられた。
「アル……」
呼ばないで。
「ア…ル……」
呼ばないでよ兄さん!
いま手を掛けたら、もう僕はあなたの弟じゃなくなる。
それでもいいの? それが解っていて呼ぶの?
それが解っていて、誘うの?
僕のためらいをついて、兄さんが半身を起こし、首に抱きついてそっと僕のくちびるを舌でこじあけた。
自分から舌をからめてきたくせに、兄さんのその舌の動きは、どこかうつろだった。
夢でもみているかのように、肝心なところで頼りなく、僕のを煽る。
本当に、このひとは解っているのだろうか。
自分がいまくちびるを赦している相手は、自分の血を分けた実の弟だと解っているのだろうか。同じ胎内で同じように過ごして生まれた兄弟だと、それでも恋することをやめられない相手だと解ったうえで、この甘い舌をゆだねているのだろうか。
思わず噛んでやりたくなる、そして、喰い尽くしてやりたくなる。
憎しみに似たキス、しみで満たされた欲望。
ふいに、兄さんのが、僕の腕のなかでえた。
きよらかな朝のひかりが台所をまっすぐに貫いてあたためる。
僕は痛む目をこすりながらベーコンを炒め、スライスしたジャガイモを加えて胡椒をふっていた。
頭はがんがんして、そのくせ妙に冴えかえっている。目は腫れていて、しゃれじゃなく、朝陽に殺られてしまいそうだ。
そのとき、スリッパを引きずるようにして歩く足音が近づいてきて、『悪の大魔王・極悪人・第一級恋愛罪で無期懲役が決定された人非人』こと、エドワード・エルリックが顔を見せた。
「おはよ~、早いな、アル……」
「おはよう。」
ああ、顔が怒りで引きつる。
「なんかオレ、あったま痛くてさあ……風邪でもひいたかな……」
「ひけばよかったのに。」
「何か云ったかぁ?」
「はい、アスピリン。」
どかっと薬瓶を兄さんの前に置き、僕は氷水を清潔なグラスに注いでこれもテーブルに音を立てて置いた。
「アル、ひ、響くから……優しくしてくれよ……」
「ただの二日酔いだよ。それ飲んだらリンゴ食べて水飲んで寝て。半日で治るから」
「二日酔い~? 何でオレが二日酔いなんかになって……、」
と、そこまで云った兄さんが、息を呑んで固まった。
「さて? 何でだろおね、に・い・サ・ン?」
「ア、アル?」 。
僕はこめかみに青筋を立てながらにっこり笑って、リンゴを剥きはじめた。
二日酔い。
そう、二日酔いなのだ。
僕は、兄さんが作った『媚薬』のレシピを思い返した。
『メルジーネ・ベリーのジャムとオレンジマーマレードを白ワインで煮詰め、ショウガ水を加えてでのばしたもの』。
白ワインとリンゴ酒。ようするに、あれはカクテルなのだ。
そんなものを、僕とけんかして夕飯を食べ損ねた兄さんが、『のどがかわいたから』とか云って、空きっ腹にがぶ飲みしたのだ。酒に弱いくせして。
ようするに、昨夜の兄さんの媚態は、媚薬に侵されていたのではなく、空きっ腹に入れたアルコールのせいでただ単に酔っぱらっていただけ。
その気になった僕をおっぽりだして、つつこうが撫でようがキスしようが無反応で、朝まで高いびきで爆睡していたのだ、このひとは。
「……酔っぱらいだからといたわらずに、いっそ犯してやれば善かった……」
心もからだも暴走したまま、一晩放り出された僕をどうしてくれる。鎮めるのが大変だった。ええ、そりゃあもう。
「……な、ななな何か云ったか、アル?」
兄さんは、かなり本気でおびえている。
これ以上いじめるとお互い取り返しがつかなくなるし。
もとはと云えば、僕が誤解されるようなことをしたのが悪いんだし。
もうしばらく、僕ら兄弟の危うい関係は続きそうだ。そう、『兄弟』のまま。
ただ、酒屋には、もう当分行かない。
我が家から酒を駆逐する意味でも、兄さんの心を護る意味でも。
「ごめんね」
僕は、黒髪の少女の面影にひとことだけ謝った。
「ん? 何か云ったか?」
兄さんが、リンゴをしゃりしゃりと噛みながら首を傾げる。
「僕は媚薬なんか盛られなくても兄さんが好きだし、兄さんは媚薬なんか飲まなくても魅力的だよ、って云ったんだよ」
兄さんが咳き込むのと、僕が二個めのリンゴをむき終わるのと同時だった。
兄さんの背中をさすって落ち着かせ、ちからが抜けたところで、切り分けたリンゴをひとかけくわえてそっと誘う。
リンゴの反対側の端に、ためらいがちに齧り付いた兄さんの髪を撫で、首の、『ある部分』をちょっと強く刺激する。
「!?!?!?!?!?」
ことばにならない声を上げてリンゴよりも紅くなった兄さんの顔が見れて、とりあえず僕は大満足。
兄さんの『弱点』を教えてくれた『』に感謝して、僕の新しい一日ははじまった。
兄さんをための、新しい一日が。
fin.