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短編小説
食餌
キュイジィヌ
薔薇(うばら) 芳し くれなゐの
薔薇 いだけば 血を流す
薔薇 蠱惑(まどわし) 揺蕩いの
薔薇 からめて 身をまかす
*
銀のナイフを翡翠色のテリィヌに沈める。
ナイフを持つわたしの手、その爪は真珠色に染められている。
すぅっとナイフをひき、フォオクを口に運ぶ。
テリィヌの素材は空豆とチィズ。 わたしの吸血鬼は、わたしが獣の肉をたべる事を好まない。
動物性の蛋白質は、チィズと魚で摂らせる。それが、吸血鬼がさだめたわたしの食餌(しょくじ)だ。
かちかちと銀器がふれあう音が響くこの部屋は、昏く、あたたかく、なまめかしいような薫りがしている。
だから、わたしはエメラルド以外のものを身につけていない。
みどりがかったハシバミいろの目をした、白い猫。
それが、この家においてわたしが演じる役割、そして、わたしと吸血鬼の蜜月のなかでわたしが演じ続けなければならない役割だった。
わたし、という生き物。
白い貌にはめ込まれたみどりの瞳。それにあわせた、エメラルドと真珠の首飾、腕環、足環。身につけた貴石のいろをした食餌。まとわせられたコティの香水の名さえ、エメロード。
そんな、蜂蜜に漬けられたような茶番劇を、わたしたちは、もう三年以上も続けているのだ。
みどりいろの美味をくちのなかで溶かしながら、わたしは吸血鬼の顔を見る。
吸血鬼はテーブルの対面でわたしがたべているのを凝っと見ている。かれの前には葡萄酒のゴブレットが置かれ、燭台の灯を吸った闇紅の酒が玻璃(がらす)のなかで閑かに揺れていた。
フルボディの、灰のように渋い『赤』を、吸血鬼は水のように、すい、と呑む。チィズや果実、テリィヌや、いぶしたサーモンのひとひらには一瞥もくれない。かといって、血の滴るような犢(こうし)を欲しがるわけでもない。
かれは、瓶のなかの赤と、生きた人間のなかの赤以外の食事には、興味を示さない。
もう一度、ゴブレットが紅い闇で充たされる。
(ちょうだい、)
目顔でわたしが訴えると、かれは目だけで笑う。
低い体温は、つめたい微笑を生むのだろうか。わたしを映すかれの瞳には、いつも冷たい蜜がにじんでいる。艶やかな微笑。
かれがゴブレットの中身を含む。
わたしはテーブル越しに身を乗り出す。
白い猫を、わたしはイメージする。白い雌猫が、主人のくちびるに挨拶しようと、無垢なふりで首を伸ばす――そんなイマージュ。
吸血鬼のくちびるからのんだ『灰のような赤』は、楓蜜のようにあまかった。
「いつも、こうだわ」
わたしは呟く。いらただしげに呟く。なのに、わたしの声は、先刻の葡萄酒のように甘い。
「なにが?」
吸血鬼は口角を引き上げる。新月のようなカーヴを描くくちびるの笑み。
「ほんとうは辛いワインでしょう?渋くて重いのでしょう?なのに、貴方の唾液がまじると、まるで果汁のようだわ。つまらない」
「ふぅん?」
揶揄するような、或いは関心がはじめから無いような、そんな相槌。
わたしはカァッとあかくなる。室内の照明が香料入りの蝋燭だけなのは幸運だった。わたしはサービエットでくちびるをぬぐった。くちびるの、快楽の痕跡をぬぐい去るつもりで。
「たべないの?」
かれは云う。
「たべないの?」
わたしは云う。
「たべてるよ」
「嘘。『基督の血』以外たべていないじゃない」
かれはクスリと笑う。
「貴女こそ、『基督の肉』とテリィヌと『魔物が分泌する汚物』以外たべていない。もう、三〇〇日ものあいだ」
わたしは顔をしかめた。羞恥にくずれた顔のなかで、きっと、目だけがらんらんと光っているに違いない。
吸血鬼の、唾液の味。それ以外の、それ以上のことを教えてくれない貴方が悪いのではないの?
そう口にできる可愛い女だったらよかった。けれど、いともたやすくそう返す女に生まれていたら、吸血鬼はきっと、わたしに何の関心も払わなかっただろう。
吸血鬼がわたしの皿を取り上げ、キチネットへ向かう。ブリーチィズと、スプラウトと、ペカンナッツと、吸血鬼の指ほどのちいさな白いとうもろこしを載せて帰ってくる。
「……ごめんなさい、ほしくない」
ゆるして。嘆願を込めて、かれのカナリアいろの瞳を見つめる。
「だめだよ」
吸血鬼は、六〇日ぶりにフォオクを手に取った。チィズを銀でつらぬいて、わたしの口もとへ持っていく。
微量の鉄と塩の匂い。獣の体液からつくられた白い食べ物の、酸っぱい匂い。
それは、わたしが焦がれているものを連想させたから、ついくちびるを開いてしまった。
吸血鬼は餌付けをする。わたしは従順な善い仔になる。
チィズと、ナッツと、あおい植物の芽が、わたしのからだのなかに消えた。
「……旨味しいだろう?」
わたしは答えられない。
チィズの塩気と柔らかさは好ましかったし、ナッツの香ばしさはなぐさめになった。スプラウトは、そう、きっとブロッコリの芽だったのだろう、あまくて、かすかに苦くて、血が洗われるようだと思った。
けれど、わたしは飢えてつらい。
「……のませて、」
泪すらにじませて、わたしは請うた。
吸血鬼は愛おしむように、憐れむようにわたしを見つめる。
オリーヴいろの硝子でできたボトルは、かわいていた。
「待ってて」
吸血鬼が、黒いチェスの駒のような背を見せて、貯蔵庫へと消えた。
「きりえ・えれいそん」
そう、呟いた。それは、わたしを一瞥して地下に降りる階段を踏み出したかれの、去り際のことば。
『きりえ・えれいそん(この魂に憐れみを)』?
いいえ、憐れまれる所以はないわ!
わたしは貴方にえらばれた。わたしは貴方に飼われることを至福とした。
貴方が吸血鬼で、吸血鬼の体液には蠱惑の呪詛がかかっていて、貴方が戯れでのませた唾液がわたしを縛りくくり、そのせいでわたしがまるで娼妓のような、うるむ視線や微熱をふくんだ仕草やあがるばかりの体温を貴方に与えたくてたまらない、そんな生き物になったからといってなぜ憐れむの?
他の誰でもない、貴方がなぜわたしを憐れむの?
わたしは自覚している。
貴方がわたしに与える食餌は、わたしのからだを健やかに保ち、わたしの血を貴方の舌にかなうものに変えるはずだと。
この家の地下の貯蔵庫には無数の葡萄酒の瓶がコレクションされているのだから、貴方の部屋に、わたしという、『美味な生き血を詰めた・体温を持つ瓶』がひとつ増えたところで、今更どうと云うことはないでしょう?
なのに、なぜ、貴方はわたしを憐れむの?
いとしい、という素振りさえ見せるの?
こんなはずではなかった、などと瞳で語るのはやめて。
貴方が人の生き血に狂う性にうまれたように、わたしは貴方の味に狂っているだけでしょう?
食事を摂ることを、『狂う』、などと云わないで。云わせないで。
わたしは、貴方も、わたし自身も、おとしめたりはしない。
ただ、そう、わたしたちは、自分に必要な滋養を摂取しているだけ、それ以外のものでは細胞と正気を保てないほど食事を大切にしているだけ。
スペイン産の赤を持って帰ってきた吸血鬼に、わたしは婉然と微笑みかける。
ラベルには、『牡牛座』、という意味のことが書いてある。
五月生まれのわたしにのませるものとして、かれはそれを選び、そして、誕生石であるエメラルドでわたしを飾る。
吸血鬼はなぜわたしを愛する素振りを見せるのだろう。
わたしはなぜ吸血鬼を御することばでしか好意を伝えられないのだろう。
けれど、きっと或る日かれは云う。千のすれ違いの果てにたどり着いた聖なる夜に、かれはこう云うだろう。
「食べることは生きることであり、欲することは与えることなのだから、僕らがおたがいを骨までしゃぶり尽くそうとするこの衝動だけが、生き物が次代へ伝えられるたったひとつのものなのだ」と。
愛、ということばの意味の、たとえばひとつの回答。
食餌、という単語を、わたしたちは次代へ放つ。
fin.