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罪の実コンポート
桜鬼弓女
ペルセウス流星群の星々が雨露のように天をすべり、夏の終わりを彩った。
願い事なんてたったひとつだから、こんなにたくさんの星は、僕にはちょっともったいない気がする。
兄さんにそう云ったら、「欲がないやつは早死にするぞ」とおこられた。
「やりたいこと、行きたいところ、欲しいもの、そういうものが山ほどある『生きぎたないやつ』になれ」って。
でもね、兄さん。
ほんとうに、たったひとつしかないんだよ。
ぱち、と僕は目を覚ます。寝起きは悪い方じゃない。
となりのベッドには、此の世に生まれおちたその日に出逢った、愛しい人が眠っている。金色の長い髪。
起こさないように、音を立てないように僕はベッドを抜け出る。
シャツのボタンを留め、髪をとかす。ふと思い立って鏡をのぞく。そこにも金の髪がいる。愛しい人によく似た、金の瞳で見返してくる。頬がまるい。まだたった十三歳。
その事実にはちょっと、へこむけれど。
そんなことぐらいで暗い顔してられないくらい、僕は愉しい。
朝市を流すのが、生身に戻ってからの僕の日課だ。
瓶にあふれる、蜂蜜とミルク。大鍋で踊るソーセージ。はちきれそうにプリプリした、眼のきれいな魚たち。露台に積み上げられた、太陽のように丸いオレンヂやトマト。ピッチャーに輝くレモネード。
ばりっと音を立てて裂かれたレタスは宝石の色をしていて、僕がそれを指さすと、屋台の主が、ワインから作られた琥珀色の酢を垂らしてハーブを散らし、トレーシングペーパーのように薄くスライスされた玉葱の輪とあえたものを、薔薇色の生ハムといっしょに焼きたてのバゲットにはさみ、箱に詰めてくれる。僕は箱と引き替えに数枚のコインを渡す。朝陽がコインに反射して、きらめいて僕の目を射る。まぶしさに目が痛んで、ちょっと涙がにじむ。店主はおなかに響く笑い声で僕に応える。僕の胸は照れくささにうずく。
愉しい。愉しくて仕方ないんだ。
食べ物が、魅力あるものだということは知っていた。
人の声が、心をつかむものだということは知っていた。
けれど、食べ物の魅力が、色や形だけではなくて、匂いや味にもあると云うこと、レモンはすっぱくてホースラディッシュは辛く、クッキーは甘いと云うこと。
人の声が、ただの意思伝達のための空気振動ではなくて、こんな人混みのなかに来ると耳がじんじんするほど、頭ががんがんするほど響くこと、すれ違う人の会話におもわずくすりと笑うと、頬と、それから胸の辺りがあったかくなること、表情筋がいちいち刺激されて動くこと、そしてそれが不快ではないこと、むしろ幸福感が勝ること。
つい本を読みふけってしまって寝不足の朝は太陽のひかりに目が溶けそうになることや、家に帰る頃にはかるく汗ばんで、僕の匂いがするということ。
そんなことをね、忘れていたんだ。
でも。兄さんにそう云ったら、兄さんは目を細めて、いとしげに「ばかじゃねえの」って云うんじゃないかな。きっと、ね。
「アル、おかえり~」
食材を抱えて帰ってくると、寝惚け眼の兄さんが、珈琲の薫りと一緒に出迎えてくれた。
見事に目が赤い。
昨日、ベランダにピクニック用のマットを広げてふたりで流星群をながめたけれど、僕はすぐに眠くなってしまって、早々におやすみを云って部屋に引き上げた。けれど、兄さんは星の多さにずいぶん昂奮していたから、きっと寝たのが遅かったんだろう。
「ただいま。‥‥兄さん、ちゃんと寝た?」
「おう。寝た」
即座に返される反応は棒読み、おうむ返し。これはあんまり寝てない。
「けど、ハラ減った。なんか喰わせて」
ようするに、おなかがすいて目が覚めてしまったらしい。シンプルだ。
「あ、今日はね、生ハムのサンドイッチ買ってきたんだ。それと、いちじくとヨーグルト」
「ヨーグルトはヤだ」
「だめだよ、カルシウム摂らなきゃ。兄さん、ミルクも魚も食べないんだから」
「すっぱいからヤ。おまえ二個喰えよ」
「兄さんが食べなきゃだめなの。ほら、大佐も云ってたじゃない、カルシウム不足は‥‥」
「ほう、どの口が偉大なるお兄様に『豆つぶドチビ』などというのかな?」
にっこり微笑んで僕の頭をぐりぐりわしわしする兄さんの手は、肩の位置よりいくぶん高い場所にある。つまり、十三歳の僕と十八歳の兄さんの背は頭ひとつぶんも違わない。
「カルシウム不足は怒りっぽくなるんだよ、って云おうとしたのに~!!」
「ふうん?」
兄さんは口をとがらせて僕のあたまから手を離し――次の瞬間、
「この性格に惚れてるくせに」と僕の耳元にくちびるを寄せ、悪戯気にささやいた。
「に、兄さ……っ、」
「カルシウム摂ると俺が俺でなくなっちまうぜ?いいわけ?」
どういう殺し文句、もとい脅し文句、いややっぱり殺し文句なんだろう……。赤くなってるのがばかみたいだ、僕……。
「う、うん、たしかに穏和で長身の兄さんは兄さんじゃないよね」
「アルフォンスくんいいからそこへなおれ?」
「サ、サンドイッチ切りまーす」
「ごまかすな」
「トマトスープ、えびとバジル入ってるよ?珈琲に生クリーム浮かべてシナモンかける?」
「…………。」
口いっぱいにほおばってひたむきに食べている兄さんを見ながら、僕は餌づけ成功の幸福感をかみしめていた。もともと、兄さんは野生動物なのだ。寝不足で空腹の兄さんに、目下である僕が勝てるはずはないが、同じ理由で主夫である僕が負けるはずがない。
僕は新たにミルクを注いで、コップに口をつけた。
ふときづくと、兄さんが凝っと僕を見ている。
(……なに?)
「アル、おまえヘン。さっきからミルクばっか飲んでる」
「え?そうだっけ」
「サンドイッチ、喰わねえの?トマトスープも飲んでねーじゃん。食欲ないのか?」
「あ……うん。兄さん、食べる?」
兄さんは無言で椅子を立ち、テーブルの上に身を乗り出して僕の頬にやさしく触れた。
「兄さん?」
「……っ、熱ある」
「え?」
「ばかやろ、これ、37度5分じゃきかねえぞ。のど渇くだろ?だからつめたいモンがのどに気持ちいいんだろ?」
「……あ、そっか」
「おまえ鈍すぎ!」
「……あ、ほんとだ……兄さんの声がけっこう……響く」
意識すると急に体がとろりと重くなる。僕は、よりにもよって、姫体質の兄さんにお姫様抱っこされるというかたちでベッドへと納められた。
「38度3分」
僕の口から体温計を抜きとり、兄さんはため息を吐いた。
ベッドの横に椅子を置いて座り、つめたいタオルで額を冷やしてくれる。洗面器に浮かぶ氷は、さっき庭で錬成したものだ。
「気持ち、いい……」
タオルの清らかな水気と、兄さんのつめたい指が僕の火照りを癒してゆく。
「そばに、いてね……」
熱に浮かされて、そんなことを云った気もする。
兄さんが微笑む気配がする。そっと、手をにぎってくれる。とろとろと、いつしか僕は睡りに堕ちていった。
甘い匂いがする。
くだものと砂糖がくつくつと煮える匂い。
昔、母さんが作ってくれたコンポートの匂い。
プラム、あんず、桃、ぶどう、オレンヂ、りんご。
僕も兄さんも、甘く煮て冷やした、旬のくだものが好きだった。
せっかく手間暇をかけて作ったそのおやつを、僕らは競い合うようにして、ものの七分でぺろっと食べてしまう。
母さんは苦笑して、三日おきくらいにくだものを買いに行く。
「父さんがね、母さんのコンポートを好きだったの」
頬を染めてりんごを切り分け、ほうろうの鍋に水といっしょに落として火に掛ける母さんが、砂糖壺を差し出す僕にそう云ったのを覚えている。
「あなたたちはやっぱり、あのひととわたしの子なのね。父
さんも、りんごが一番好きなのよ」
父さんが帰ってくる。
母さんが笑って迎える。
兄さんがすねたふりで椅子に座る。
僕は、これが夢だとしりながら、家族4人で、その、つめたいおやつをたべた。熱を持ったくちびるに、聖らかなくだものがそっと触れる………。
「気持ちいい……」
夢と現実のあわいで呟くと、風に揺れるカーテンの影が僕の瞼をくすぐる。ゆっくりと意識が夢から乖離していく。
すべらかなものが頬に触れたので、指でつかまえてみると、それは一房の、香る髪。
瞼を開くと、兄さんが僕をのぞき込んでいる。心配そうに潤む瞳が、蜂蜜ゼリーのようだった。
起きたか、と云う。僕はゆっくりと頷く。兄さんのまなざしの緊張がちょっと緩む。
「りんご、煮てきたんだ。……食えるか?」
「兄さんが?」
「なんだよ、その反応」
硝子のティーカップに盛りつけられた、りんごのコンポート。
僕は器を受け取り、その、なつかしい食べ物の姿を、感激のあまり惚けたように見つめた。
「眺めてないで、喰ってみろよ。いちおう、食えない味じゃないと思うぜ?」
ゆっくりとりんごを銀の匙ですくい、舌にのせる。つめたくて、とけそうにあまい。熱で鈍った舌にも食べやすいように、濃いめに味を付けているんだ。
「おいしい。なつかしい味がする……兄さんて、料理うまかったんだ」
「なんだよそれ。知らなかったのか?」
ことばと裏腹に、はにかんだように兄さんは笑う。
僕は、もう一匙すくって、今度は兄さんの口許に近づけた。
兄さんはちょっとためらって身をひいたけれど、僕が微笑んで、視線で促すと、観念したようにスプーンをくわえた。
「母さんの味だよね。……ありがと、兄さん」
「……おう」
ちょっと赤くなった兄さんのほうが、僕にはりんごよりもうれしい、なんて、云いはしないけれど。
赤い兄さんと、あまいコンポート。その両方が、何にも勝る、薬だった。
「……ごめんな」
ふいに、兄さんは云う。
「なにが?」
ちょっとおどろいて手を止めると、兄さんは目を伏し目がちにして呟く。
「体調悪いの、気づいてやれなくて。買い物にまで行かせて」
「そんな……兄さんは何も悪くないじゃない」
「悪いんだよ。保護者失格だな、ってちょいめげてた」
僕は、おもわず笑みをもらした。
「……なんだよ、」
「だって、兄さんのこと、信じて頼ってはいるけど、僕にとっての兄さんは保護者っていうかんじじゃないもん」
「そりゃ、世話ばっかかけてるけどよ。年子ったって、俺、兄貴じゃん。いまは体の歳は五つも違うんだぜ?なのに、甘えすぎてた。俺」
「いいじゃない」
「よくねーよ」
「いいんだよ。僕が、甘えてほしいんだ。それに、しかたないよ。兄さんは愛され体質なんだから」
「なんだよ、それ」
「兄さんは愛される星の下に生まれてきたひとで、僕は愛する星の下に生まれた者だってこと。だから、星回りとして、僕は兄さんを愛して甘やかしたいし、兄さんは愛されて甘やかされたいんだ。兄さんにはそれが赦されるんだよ」
「……なんか、俺、だめかも」
「なにが?」
「恋愛依存症かも」
僕は微笑み、手を伸ばして兄さんの頬に触れる。そのまま、頬にかかる金の髪を梳き、かるくひとつに束ねた長い髪に指をすべらせ、そっとつかんでひっぱった。
「キス、してよ」
云って、兄さんの瞳を見つめる。
さっ、と、兄さんの頬が朱に染まる。
「おまえ、…っに、云って、」
「してよ。すごいやつ」
ゆっくりとそのなめらかな金糸をもてあそび、見せつけるように、くちびるを押しあてる。兄さんの肩がぴくりと動いた。
いとおしいその髪を解放し、すこし視線を逸らしてそっと自分の下くちびるを舐める。再び兄さんの顔をうかがうと、その瞳は潤み、くちびるは濡れていた。
頬に触れる。
「欲しいんでしょう?」
「ァ、ル……」
おびえたような目で、花のいろに染まった頬で、罪の実のいろをしたくちびるから、かすれた声で僕の名を零す。
次になにか云おうとする、その一瞬の隙をついて、僕は、濡れた紅い果実に、くちびるで触れた。
緊張しているのか、かたく締まったそのくちびるを、そっと舌でくすぐる。と、すこしづつ、兄さんのためらいは解けていくようでくちびるが咲いてきた。
いつのまにか僕の背に回された手に力がこもる。けれど、兄さんは僕の好きにさせてくれていた。つまり、されるが儘なのだ。
くちびるを離す。
兄さんの琥珀色の瞳が、不満げに不安げに揺れる。
まるでグラスのなかで揺蕩うウイスキイのように。
(僕のものに、なりたいの?)
そんな僕の心の声が聞こえたわけでもないだろうけれど、
「……なすな、」
蜜蜂のささやきよりも儚い声で、ふいに兄さんが呟いた。
「え?」
「離すな」
鼓動が、ひとつ跳んだ。
心臓が、あまりの甘さに痛み出す。おそろしいスピードで、毒がからだを巡る。指先まで、爪の先まで、蜜色の毒に侵される。
「……なに?」
って。
じらそうと思って問いを投げたけれど、答えを待てなかった。
ひりつくのどを癒す液体が欲しくて、もう一度、そのくちびるに触れる、触れるだけでは終われない。僕は、兄さんのくちびるをこじ開けてそのやわらかに潤んだうすい舌を吸った。
(……あ、)
罪の実の味がする。
あまい、とけそうにあまい、それを食べる者に罰を与える実、叡智の果実。
神は明日を引き寄せる者、罪は罰を引き寄せる者。
此の世でもっとも激しい痛み、そして苦しみは、愛から生まれる。愛を知ることは神の罰だと人は云う。
だから、愛しいひとの舌は罪の実の味がするのですね。
「あまい……」
兄さんが呟く。
「あまいのは兄さんだよ……」
「おまえだよ……りんごの味がする」
兄さんにとっての僕も、罪の実なのだと……そう云うのだ、この愛しいひとは―――。
(もっと欲しい、)
兄さんの右手が僕のくちびるをなぞった。
鋼のつめたさが、僕を煽る。
「もっと……。気持ちいい、兄さんの指」
「熱あるからだろ……?もう寝ろよ、」
「兄さん、くちびるが嘘ついてるよ」
「え!?」
「濡れてる」
兄さんは本当に、りんごのように紅くなり、口許を手の甲で押さえた。
「目も。潤んでる」
「ば……っ、いいから寝ろ!」
「一緒に寝てくれたら寝る」
「なに!?」
「だって、機械鎧がつめたくて気持ちいいんだもん」
「な……、」
兄さんは泡喰ってくちをぱくぱくさせている。
「一緒に寝て」
「……おまえ、貞操の危機とか考えねーの?ひとの理性ゲージはちゃんと計らないと痛い目みるぜ?」
「兄さんは病人に手を出すの?そんなひどいひとじゃないって僕知ってるよ?見損なわないで」
「……っ、おまえ、鬼畜……っ」
「一緒に寝てくれたら、明日までに熱も下がると思うんだ。機械鎧が熱とってくれるから、楽に寝られそうな気がする」
「…………………………。」
「ね?きてよ」
僕は毛布をひらき、ぱんぱんと敷布をたたいて場処を指し示した。もちろん、満面の、無邪気な笑顔で。
「おやすみ、兄さん」
追記。
あんなにがちがちだったくせに。兄さんは、ぶちぶち云いながら入り込んだ僕のベッドで、根負けして、僕よりも先に寝てしまった。睡魔の訪れが健康なのは、家族としてとても嬉しい。
追記2。
そんな兄さんが健やかな寝息を立てはじめたのをみはからって、僕は兄さんのパジャマのボタンをはずし、襟を開いて、そっと肌に触れてみた。
古い傷痕がちらばるその肌はくちびるで触れてみると、プディングのようになめらかで気持ちよかった。舌をとがらせ、兄さんの汗を味わいながら、そっと僕の徴を残してみた。
合わせ鏡で見ないと分からない位置だから、たぶん一生気づかないだろう。キスマークが一週間で消えるものだというのは、ひどく切ない。
だけど、兄さんは、吐息を漏らしただけで全然気づかなかった。眠りが深いのは、安心していると云うこと、根無し草ではないということだ。それは、家族としてとても嬉しい。
追記3。
夜が明けた。
実は、昨日、ベッドに運び込まれてから、ずっとずっと体中が痛かった。
朝になってましになったのでベッドから下り、鏡の前に立つと、心なしか鏡像の印象が違う。
……………………やっぱり、成長痛だったんだ。
成長痛。成長期の男子に起きる疼痛。急激に骨がのびるので痛みを伴い、発熱する。
兄さんは熱があるから寝ろって云ってくれたけど、風邪ではなさそうだったんだよね、黙ってたけど。
これでまた、兄さんに身長が近づいたに違いない。だから、「兄さんもヨーグルト食べなよ」、って毎朝云ってたのに。
毎朝二個づつのヨーグルトとコップ一杯の牛乳がこういうサプライズを運んでくれるんだよ、って云っても怒髪天のていで聞いてくれないだろうなあ。
とりあえず、今日も市場へ行って来ます!
追記4。
市場から帰ってくると兄さんの様子がヘンだ。
熱がある。風邪をひいたらしい。
シーツと枕カバーを替え、氷嚢の準備をして、寝かしつける。
りんごを煮ながら僕はぐるぐるといろんな事を考える。
と、いうのは、僕自身は、病人の世話に一種のロマンを感じる……というか、最愛のひとが床についたとき、そのひとの世話をしながら、うるんだ瞳や汗ばんで敏感になった肌や
熱い吐息を感じたら、喰わずにはいられないじゃないかと思うのだ。
その点、兄さんは人格者。そして僕は鬼畜。
あまくとろける罪の実を食べさせるかわりに、さて、僕はなにを食べさせてもらおっかな。
硝子の器にコンポートを盛りつけ、ブランデーシロップをかけて銀の匙を添え、僕は寝室のドアを開く。
あどけない顔で眠る「罪」を見つめながら、僕は後ろ手に戸を閉める。
このドアとその胸に鍵を掛ける音が、高く、響いた。
fin